シンプルで解りやすい幸せと気が付きにくい幸せ。
シンプルイズザベスト?
昔、実家には犬がいました。
その犬が病気で倒れた時に、獣医さんから注意された行為があります。
それは、犬に人間と同じものを食べさていたことです。
人間の食べ物には犬にとって、悪い作用が働くものもあるとのことでした。
その獣医さんの注意以降、犬用のエサ以外をあげることは、ありませんでした。
食事中に物欲しそうに見つめる犬
家族がなにか食事をするときに、犬が「ワン!ワン!」とみんなが食べているものを「僕にもちょうだい!」と催促してきます。
うちの犬が人間のご飯をもらうときによくやっていた芸があります。
お座り→お手→ふせ→バンッ!(鉄砲で撃たれたように転がる)→立つ(後ろ足だけで立つ)
この芸の流れを食事以外の時は、嫌々にやってくれるのですが、食事の時は合図を出す前に自らやるのです。(お手は、催促相手の足に勝手においてきました。)
みんなが食事を分け与えなくなってからも、積極的にこの芸をやってくれました。
しかし、みんな分け与えたいのを我慢し、彼の健康を考えて食べさせることはありませんでした。
すると、最終的には、みんなが食べている姿をじっと見つめているだけになります。
そんな時によく思うことがありました。
どっちが幸せなのか?
「食べたいものを我慢して長生きする」ことと…
「食べたいものを食べて短く生きる」この選択のうちどちらが幸せなのだろうか?
思うように食べたいものを食べれないまま長生きすることは彼にとって不幸な犬生なのではないか。
考えた末に結局「食べたいものを我慢してもらう」という選択は、変えませんでした。
理由としては、家族として健康に長生きして欲しいから。
そしてもう一つ理由があります。
幸せは1つではない。
食事だけが、幸せではない。
うちの犬は家族が帰ってくると、とても嬉しそうにしっぽを振りながら迎えてくれました。
特に妹が大好きで、妹が帰ってくると妹にべったりでした。
おそらく妹といる時間は、彼にとってとても幸せな時間だったと思います。
散歩も楽しそうにしていました。
昼寝をしているときはとても気持ちよさそうに寝ていました。
郵便屋さんが来たときは、吠えて番犬のごとく振舞っていました。
家に郵便物を配達し郵便屋さんが離れていくと、さも自分が追い払って家を守ったといいたげな誇らしい顔をしていました。(郵便屋さんごめんなさい!)
家族がみんな出かけて留守にすると、この家のボスだと言わんばかりに、テーブルに上って偉そうに座っていた時もありました。(忘れ物などをして家に引き返すと必ずといっていいほどテーブルに上がっていました。)
きっとそれらも彼にとって幸せな時間だったのではないかと思います。
人間の食事を分け与えるのをやめたことで、他の幸せを体験する数は増えたはずです。
シンプルでわかりやすいことだけが、幸せではない。
うちの犬にとって人間の食事を食べられることは、とても喜んでいたので、見ている僕たちからすれば解りやすく幸せそうでした。
ただ僕たち視点から見て、幸せそうに見えなくても彼からすれば幸せなことってあったと思います。
自分のこと、もしくは自分の視点から見た誰かの出来事で、シンプルにわかりやすい幸せもあれば、自分でも気が付かない、自分の視点で見た誰かの出来事で、一見すると幸せに感じていないように見えて幸せということもあるかもしれません。
もしも、シンプルにわかりやすい幸せが消えた時、違う部分で気が付きにくいけど幸せに感じていることが生まれているかもしれません。
まとめ
目に見えた幸せが消えた時、他に幸せに感じていることってないか考えてみる。
案外、自分でも気が付かなかったことから幸せを得ていることがある。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
皆さんの日常が素晴らしい何かを得られる日々でありますように。