習慣は過去に、特別だったこと。
特別なことの積み重ね
朝早くに起きて家事をすることが習慣化されてきました。当初は、「さぁ、起きて家事するぞ!」と意気込んで取り組んでいましたが、いまとなっては、流れ作業のように自然に行えます。
最近読んだ本、『ハーバードの人生を変える授業』の中で、新しいことに取り組むには、習慣化することが良いと書かれていました。取り組むことが必要という価値観と、決まった時間に決まった行動をすることが、習慣化につながるそうです。
朝の早起きと朝の家事が最近の行動で習慣化したことに当てはまると、気が付きました。
そしてもう1つ『逆に考えると習慣の中には、もともと特別だったこともあるのかな』と、思いました。
習慣をさかのぼってみる
今は自然にやっていること、当然だと思っていることに目を向けてみる。すると過去にその習慣を特別だと思っていたことや、感動して行動を起こしたことがあるはずです。
2年前にパソコンに触れる機会がほとんどなかったのですが、仕事でパソコンを使って業務を時短できたことに感動して、パソコン教室に通うことを決めました。最初は通うのがしんどかったのですが、しばらく通っていると習慣になったのか、仕事終わりに教室に通わないと逆に物足りなさを感じるよになっていました。パソコン教室に通ったおかげでパソコンに対する苦手意識もなくなったし、通い始めは、キーボードを見ながら打っていたのが、今では、ブラインドタッチが出来るまでになりました。ブラインドタッチも始めは感動しましたが、いまとなっては自然に行っているのでそれ自体に感動することはありません。
もっと習慣をもっとさかのぼっていくと、感動したかわからない習慣もあることに気が付きました。
呼吸や歩行に会話、遥かむかしの特別なこと
あまりにも習慣化しすぎて気が付かないことのいくつかに、呼吸というものがあると思います。誰しもが生まれてすぐに産声をあげ呼吸をします。そう考えると産声というのはこの世界に生まれ、呼吸ができたことへの感動表現かもしれません。
歩行は、お父さん、お母さん、兄弟、家族に近づくため。もっと感動できることを探すため。会話は、誰かに気持ちを伝えるため。気持ちを共感してもらうために取り組んだはずです。覚えてないだけで、それらが出来た時に感動していたかもしれません。家族は、少なくとも代わりに感動してくれたはずです。
現在なにげない日常を過ごしていることは、呼吸することすら感動していた頃の自分からすると、案外『超・すごいこと』なのかもしれません。
現在の日々は過去の特別なことの積み重ねです。
たくさんの特別なことで日常が出来ていると考えると、いま取り組んでいる特別に感じていることも、上手くできる様な気がします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
皆さんの日常が素晴らしい何かを得られる日々でありますように!